流れ論

麻雀に”流れ”は存在するか

用語の定義の仕方によって、命題が真であるか偽であるかがいくらでも変化するような場合、必ずその用語についての定義、説明を行わねばなりません。特に、”流れ”というのは実に抽象的な概念なので人によって定義がまちまちなので、尚更このことに気をつける必要があります。麻雀で流れという言葉が使われる場合は凡そ以下の三つの意味で用いられます。

(1)偶発的現象における一連の傾向(前局放銃して流れが悪くなったので配牌が悪い)
(2)人間の心理における一連の傾向(前局放銃して弱気になって押すべき手を押せない)
(3)ゲーム展開(前局放銃して持ち点が少なくなり、配牌も悪いので勝てない流れである)

それぞれの意味で存在するかどうか、結論をまず示します。

(1)の場合:存在するわけがない。

(2)の場合:確かに存在するが、戦績に与える影響は人が思うより余程少なく、余程メンタルが弱い打ち手でもなければ無視できる程度である。(システマティック麻雀研究所 「「流れ」が存在しないことの証明」参照。)

(3)の場合:当然存在する。

これは何も私の個人的見解などというものではありません。真理です。わざわざ解説するまでもありません。(2)、(3)の意味ならば、確かに存在はするでしょう。しかし、(2)の意味ならば心理的な傾向と言えばよいだけで、(3)の意味なら単に展開と呼べばよいだけです。((3)の意味なら流れは存在すると主張するのは、流れを長靴と定義すれば、流れはあると言っているようなものです)明確に区別されるべき概念に同じ言葉を用いて混同するのは、頭の悪い人のやることです。

それでも流れ論が蔓延する理由

日本プロ麻雀連盟 「中級者雀力アップにおける抽象的概念の排除

上の文章の筆者(連盟プロ)は、(1)の意味での流れを否定してはいますが、それでも流れ論自体は否定していません。(もっとも、この文章の内容自体筆者の本心でない可能性はあります。つい最近、流れ論を批判し連盟を除名された人※まぁじゃんは人生(18)参照が出たばかりです。その為、流れ論を懐疑しつつも否定はしないといった形の文章にせざるをえなくなったのかもしれません。)

筆者が流れ論を否定できない理由(否定できないことが本心だとするならば)は大きく分けて二つあります。一つは、筆者が(1)の意味での流れと(2)(3)の意味の流れを混同しているということです。「麻雀は点でなく線で捉えるもの」とありますが、この”線で捉える”というのが、(3)の意味での流れ、つまりはゲーム展開を考慮することとも言い換えられます。点棒状況や読みを考慮した手作りや押し引きがそれにあたります。逆に、””に相当する技術が、平面的な牌効率や簡単な押し引き(リーチに対し押すか引くか自分の手牌のみで判断する)です。線で捉えることも重要だが初中級者のうちは””に相当する技術の精度を高めることがまず必要であるというのが筆者の主張です。内容自体には大きく同意します。しかし、麻雀を線で捉える為に必要なのは、牌効率、押し引き、点棒状況判断、読みといった個別の技術を、現在おかれている局面ではそれらをどの程度打牌選択に反映させるべきかという総合的な判断力なのであり、決して”抽象的な概念”ではありません。確かに点棒状況や読みを考慮に入れた判断というのは、正誤判断が難しく、どうしても曖昧さが残ります。この為、抽象的な概念と思われがちになりますが、点棒状況判断や読みの技術自体は、極めて具体的な概念です。

もう一つは、実際に流れ論者が結果を残しているということです。この筆者より強い(と思われる)流れ論者の先輩プロは数多くいます。野球の解説者に流れ論者が多いことも例として挙げられています。麻雀と同様、野球もまた流れ論が未だに蔓延しているようです。

流れ論自体は、上に挙げたように全くの誤りです。しかし、流れ論を信仰していること自体は戦績にそれほど悪影響を及ぼすわけではありません。流れ論者とはいえ、流れによって打牌を変えることがそんなにあるわけではありませんし、変えた選択が必ず悪手になるとは限らないからです。他の部分の技術が優れていれば、流れ論者であっても実力者であることは十分有り得ます。流れ論を信仰していること自体は、いわば、”顕在的なミス”ではあるが、戦績には大して影響しないミスなのです。野球において最も戦績に強く影響する要素は、選手の身体的能力と技術です。流れ論を一切信仰せず、緻密な理論に基づいた名采配ができる監督がチームを率いたとしても、草野球チームがプロ野球チームに勝つことはまずありません。

麻雀も、理論だけで打牌選択を一意的に決定することができる程研究が進んでいるわけではありません。特に、上で挙げたような”線で捉える”技術については、どうしても”経験則”に頼らざるを得ないところがあります。優れた結果を残している打ち手(もっとも、連盟のリーグ戦で上位にいることが果たして実力者であることの保障になるかどうかは極めて怪しいものがあることは今まで申し上げた通りですが)の経験則であれば確かに正しい可能性は高いでしょう。しかし、この経験則というのも、何も抽象的で理論的に解説できないものではありません。牌効率、押し引き、点棒状況判断、読みといった個別の技術を、現在おかれている局面ではそれらをどの程度反映させるべきかという総合的な判断を行ったうえで打牌選択をしていることには、精度の高さや意識的か無意識的かの差こそあれ、初心者でも上級者でも、流れ論者でも非流れ論者でも変わらないからです。経験則云々という代わりに、”個別の技術”を、”どの程度”反映させたかを説明すれば事足ります。

的確な解説を行うためには、概念を明確化させる必要があります。抽象的な概念を抽象的なまま用いていては解説にならないことは言うまでもありません。流れ論者や、流れ論を否定できない打ち手の多くはこれができていないのです。流れについて上で(1)、(2)、(3)のように挙げたような定義づけもまた、概念の明確化です。もし概念を明確にできるのであれば、”流れ論”がおかしなものであることをすぐに見抜き、そのようなものを信仰するはずもないからです。(概念を明確化したうえで尚も、(1)のような流れが本当に存在すると信じている場合は別です。機構の土田プロが語るトイツ理論は全くのオカルトですが、理論自体は非常に明確です。福地誠blog 「土田システム」参照。)しかし、的確な解説ができることも麻雀の実力にはそこまで関係しないのも事実です。要は、”強者必ずしも識者たらず”ということなのです。

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