“答え“が判った後の麻雀界

全ての局面における答えが判明した時、麻雀は滅びるのでしょうか。既にお察しでしょうが、私は滅びるとは全く思っていません。

そもそも、全ての局面における答えが既に判明しているにもかかわらず、ゲームとして成り立っていて、多くの人が楽しんでいるものは数多くあります。クイズのように、予め答えが用意されたものに対して正答率や正答までにかかった時間を競うものがまさにそれです。そうです。正解が判っているのと、実戦で正解通りの選択ができるのとでは非常に大きな差があるのです。答えが判ってしまうとつまらない等の発言をする人は、この差を余りにも軽視しているのです。

もちろん、この差が小さなものになってしまえば、つまり、正解を実戦で簡単に再現できてしまうようになれば、答えが判ってしまうと(答えという意味を求めるゲームとしては)つまらなくなってしまうのは確かです。一度攻略したRPGをもう一度最初からプレイする気にはそこまでならないのと同じです。好きなゲームであればそれでも何度もプレイする人もいるでしょうけど、それは攻略が目的ではなく、世界観が好きであったり敵を倒すこと自体が好きであったりと、プレイすること自体が楽しいからするわけです。この、それ自体が楽しいという感覚を、「意味」の対義語として「強度」と言います。麻雀にも「強度」は存在します。例えば、高くて美しい手、とりわけ役満をあがった時の喜びです。麻雀を覚えたての頃は麻雀が打ちたくて仕方がなかった人も少なくはないでしょう(かくいう私もそうでした)。これもまさに、ただ麻雀を打つこと自体が楽しいという心がそうさせるのです。

しかし、長年、特に勝つという意味を求めて麻雀を打っていると、どうしても上に挙げたような強度的な楽しみは失われがちです。私も役満に浪漫を感じなくなってから久しいものです。代わりに3フーロしたイッツー・ドラ1等の和了に点棒以上の価値を感じるようにもなりましたので(笑)その点では強度は失われていないとも言えますが、それでも麻雀には、長年打っていれば誰しも避けられない長期間の不調があります。例えどんなに麻雀が純粋に好きな人でも、絶不調時も苦痛なく打てる人は稀でしょう。このように、麻雀は強度を求めるゲームとしては、あまりふさわしいものではないのです。

それ故、麻雀の答えが判明し、しかもそれが容易に実戦で再現できるようになれば、意味を求める楽しみが失われ、滅びるとまでは行かなくとも、ゲームとしての魅力に欠けてしまうことは確かです。しかし、繰り返しになりますが、容易に再現できるようになることは、既に答えが判明しているうえに再現もそう困難でないゲームにおいても大半の人間ができない現状がある以上、極一部の打ち手に限られるでしょう。

しかも、麻雀は幸いなことに、極めて柔軟にルール変更ができます。ウマオカが変わるだけで少なくとも答えの丸覚えでは対処できなくなりますし、日本麻雀と中国麻将では最早別のゲームです。半荘毎にルールがランダムに変更されるようにすれば、極一部の非常に優れた打ち手であっても、容易に再現することはまず不可能でしょう。そして、そこまで麻雀の研究が発展すれば、どのようなルールが答えの再現が難しく、実力差がつきやすいかという研究も進み、現在の麻雀とはまるで異なる麻雀ゲームが開発されるかもしれません…それはある意味、麻雀の「滅び」とも言えます。しかしそれは絶望ではなく、新たな希望―麻雀を超えた麻雀の「創造」です。だから私は、「全ての答えが判ったらどれだけ楽しいことだろう」と思うのです。

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